自分らしく今を生きる!

自ずから収まるところに収まる

病に負けない心を育てる

だいぶ前のことになりますが、長岡市にある科学博物館を見学させていただいたことがあります。なかに、長岡城の歴史を展示するコーナーがあって、長岡藩藩主の末裔にあたられる、館長直々にご説明いただけることになり、身の引き締まる思いがしたことを覚えています。

 

  長岡藩には、「米百俵」の精神があって、後世に語り継がれています。小泉元首相も故事を飲用されたことがありました。

山本有三の戯曲「米百俵」では、この場面を次のように表現しています。(河井継之助なき後。藩の重職についた)小林虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかけます。「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米俵などでは、見積もれない尊いものになるのだ。その日暮らしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……」

  小林虎三郎は、長州の吉田寅次郎(松陰)とともに「(佐久間)象山門下の二虎」といわれています。その象山をして「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである。」と言わせるほど、虎三郎は根っからの教育者でした。戊辰戦争によって失われた藩校は、寺院本堂を仮校舎として再開されます。その後建て替えられますが、その際に米百俵を売ったお金が建築資金の一部として使われ、誰でもが入学できるものとなります。長岡高校にその伝統が引き継がれ、山本五十六など軍人や半藤一利夏目漱石の親族でもある)など多くの著名人を輩出したことで知られています。

 

 その小林虎三郎ですが、数々の改革に取り組みながら、終生、彼を苦しめたのは、慢性リュウマチなど、様々な病でした。虎三郎は後年、自らを病翁と号しています(改名したとの説もあります)。

虎三郎は、漢詩をよく書いています。以下、坂本保富先生の論文「病翁小林虎三郎の病気と現状の分析」から意訳を引用させていただくと・・・・・

「久しく難病を患って苦しんでいるが、どうしょうもない。まるで優れた鷹が遠くへ飛んでいく羽根を折ったようで、どんな治療も効果がなく、年月だけが空しく過ぎていく。色々なことが入れ替わって、だんだんと老境に近づいていく。」(明治5年頃)

この頃「虎三郎は、持病である風湿 (慢性リウマチ)を病んでからすでに20 年が過ぎ、さらに今また肝臓病や皮膚病を併発し、それらの病気に特有な脱力感、掻痒感、食欲不振などの症状に苦悶して精神的に沈欝の状態にあった」ようです。そうしたなかでも、この後の数年間は、「小学国史」など持論の教育立国に関係した数々の作品を世に出すなど、精力的に活動します。その虎三郎について、坂本先生は「病魔と格闘しながら、何事かをなそうと最期まで苦悩した彼の人生は、常に永遠なる天と対峠して己の天命を問い、恥じなく己を全うせんとする、実に壮絶な一期であった」と結んでいます。

 こういった虎三郎の生きざまから、私たちは何を学べばよいのでしょうか。私は、諦めない心だと思っています。虎三郎は慢性リュウマチなど、20年以上も病と闘って、いつかは治したいと思いながらも、晩年に「病翁」と号するあたりのことを考えると、「不自由を常と思えば不足なし」(家康の遺訓としても知られます)といった達観した気持ちが、このときにあるいは芽生えていたのではないか、だからこそ、病を言い訳にせずに、次々に著作に表して、具体的な形にしていったのではないか、そう思えてくるのです。